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東洋と西洋に引き裂かれたベトナム皇室
19世紀はじめに興ったベトナム阮(グェン)朝はフランス人宣教師の協力により生まれた王朝でした。そのため、初期からフランスと同盟関係を結びました。
しかし、その皇族らは、やがてキリスト教や西洋文明に惹かれる者と、それらを嫌い伝統的な文化を守ろうとする者に分裂します。その影響は阮朝の終わりまで続きます。
フランス文化に染まった悲劇の皇太子
この分裂は初代皇帝 嘉隆帝の皇太子、阮福景が条約締結のためにパリに出向いたことに始まります。
7歳でパリの王宮を訪れた阮福景は「コーチシナの王子」としてフランス宮廷にセンセーションを巻き起こします。年齢が近かったマリー・アントワネットの息子ルイ・ジョセフと一緒に遊んだという逸話まであるそうです。
持病のあった王子ルイ・ジョセフはその後、両親の処刑を待たず短い命を終えました。
そして、その後の阮福景の運命もまた、はかないものとなります。
フランス人画家の手による阮福景
阮福景はフランス文化とキリスト教にすっかり魅了されます。
帰国した彼は儒教の伝統である祖先の位牌に跪くことを拒みました。さらに仏像には十字架を塗らせます。
そしてカトリックへの改宗を望み、パリに同行したフランス人宣教師と親密でした。
日影の運命となった阮福景の子孫たち
阮福景は皇太子でした。ところが彼はその後、父の後を継ぐことなく亡くなります。若くして天然痘にたおれたのです。
それでも阮福景には息子がいました。慣例なら皇太子の息子である、その子が王位継承者になるはずでした。
しかし阮福景の父である嘉隆帝は、カトリックに改宗し先祖崇拝を軽んじていた孫ではなく、西洋人に強い嫌悪感を持つ4番目の息子を後継者に指名します。
かつて七歳だった阮福景をフランスに派遣したのは、父親の彼だったろうにもかかわらず、です。
阮福景の父、嘉隆帝の変化をみると、もしかしたらキリスト教に寛容だった秀吉、家康が、やがて否定的になっていったのと同じことが、ベトナムでも起きたのかもしれません。
実は阮福景の死因は天然痘ではなく、毒殺だったという説もあります。もし、そうだったならば、誰が犯人だったのか、少し考えさせられますね・・・。
その後の阮朝の皇帝はしばしばカトリックを弾圧しました。
結果、4代皇帝嗣徳帝のとき、カトリック弾圧に反発したフランスが軍事侵攻し、ベトナムは植民地化されます。
ついにフランス支配下となったベトナム。しかし阮朝とその皇帝は滅ぼされることなく、フランス統治の下で残り続けます。
それでも、阮福景の子孫は貴族ではあったものの、皇位とは縁のないままでした。
溥儀になりたかった皇族クォン・デ
後に阮福景の子孫は意外な形で、日本と縁を結ぶことになります。
阮福景の玄孫にクォン・デ(彊柢/阮福単)という人物がいます。
20世紀はじめ、彼はフランスからのベトナム独立を願い、日本に協力を求めてやってきます。活動家たちと共にベトナム維新会なるものを運営していました。
阮福景の玄孫 クォン・デ
東京、神田の軍学校を出て早稲田大学に進学。完璧な標準語を話せたそうです。
犬養毅らの援助を得て、ベトナムから200人ほどの学生を呼び寄せ、日本で学ばせました。
しかし、彼らの活動を封じ込めたいフランス政府から日本政府に対して圧力がかかります。結果、多くが追放されることになりました。
クォン・デも日本を出て中国に渡り、そこで中国軍人のスポンサーを得て、ヨーロッパやシンガポールを旅します。長期間さまよっている間に、クォン・デの立場は行方不明扱いから死亡扱いに変わりました。
日本軍に接近する野心家クォン・デ
日本に戻り、ホーチミンらの活動を知ったクォン・デは、日本軍に接近しはじめます。彼の望みは日本軍の力でベトナムに満州国のようなものを作ってもらい、溥儀のような形で王座を得ることでした。
太平洋戦争の前、クォン・デは台湾に住み、ラジオ番組制作を行っていました。
やがて日本軍がフランス軍を追いやり、ベトナムに日本支配下のベトナム帝国をつくります。臨時政府が置かれ、クォン・デはその要人となりました。
しかし、日本側は皇帝をすでに即位していたバオダイ帝(保大帝)のままにしておくつもりだったため、クォン・デは不満をつのらせることになります。
クォン・デの運命とベトナムの運命
敗戦後、日本軍はベトナムを去り、ベトナム帝国も消滅します。クォン・デも日本軍とともに祖国を去ることになりました。
日本に戻ったクォン・デは、安藤マサオという名を名乗り、日本人女性と共に暮らしながら、次のチャンスをねらうことにします。
1949年には、フランスの植民地支配を許す皇帝バオダイと争うために、必ずベトナムに戻ると記者会見します。
・・・しかし、天は彼に味方しませんでした。およそ2年後、クォン・デは日本で病死することになります。
遺体はクォン・デがベトナムに残してきた妻子が引取り、ベトナムに葬ることになりました。
このとき、王朝の元臣下で熱心なカトリック教徒のゴ・ディン・ジエムが出迎えたといいます。ジエムは後に皇帝バオダイを追放し、自らが大統領となります。
大統領ジエムの下で、南ベトナムはアメリカ軍の戦場となり、膨大な戦死者をだし、枯葉剤の被害に苦しむことになります。
(関連記事:「アメリカ頼みの戦争の末路 日本人なら絶対に知っておくべきベトナム戦争」
「ベトナム戦争はキリスト教のせい?カトリックに染まった南ベトナム」)
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ラストエンペラーの映画だと、溥儀は日本軍に振り回された哀れな傀儡皇帝といった感じでしたが・・・それに憧れるベトナム皇族がいたなんて、驚きですね。
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ベトナム戦争はキリスト教のせい?カトリックに染まった南ベトナム
https://en.wikipedia.org/wiki/Nguy%E1%BB%85n_Ph%C3%BAc_C%E1%BA%A3nh
https://en.wikipedia.org/wiki/C%C6%B0%E1%BB%9Dng_%C4%90%E1%BB%83
https://vietnamhuetourism.jimdo.com/ベトナムフエの歴史と日本/
http://loisir-space.hatenablog.com/entry/20150102/p1