世界の中の日本

A級戦犯と呼ばれた男 徳富蘇峰で知るイギリスと日本の溝

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徳富蘇峰(本名:徳富猪一郎)氏について、ご存じの方はあまりいないのではないでしょうか。

軍国主義時代の日本で、一般大衆に持て囃された人気ジャーナリストです。

なんでも夏目漱石の大衆文学「吾輩は猫である」が出版数1万部あまりだったのに対し、
徳富蘇峰の「大正の青年と帝国の前途」はおよそ100万部に及んだといいます。

この時代の大多数の日本人の心情を代表していたのが蘇峰だという。

日本経済新聞 徳富蘇峰

彼は戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであり、なおかつ政府による世論操作にも深くかかわっていました。
そのため終戦後はA級戦犯容疑の指名を受け、GHQにより自宅拘禁されました。

こうした経歴のためか、現在の日本で彼は殆ど無名になっていますね。

しかし中国では、軍国主義時代の日本の世論の先導者として、広く研究の対象とされています。実は私も中国サイトで彼のことを知りました。

 

今回、日清戦争の時期に書かれた徳富氏の代表作「大日本膨張論」と、太平洋戦争の4年前に出された「皇道日本の世界化」を中心に、戦前の日本の変化を考えます。

軍国主義時代の日本の話題には敏感な方も少なくありません。そのため、徳富氏の著作からの引用を多用し、誤解を最小限にしたいと思います。
ただ原文のままでは理解が難しい戦前の言い回しは、現代人にわかりやすい形にかえています。ご了承ください

 

徳富蘇峰の世界観の特徴

特徴1:イギリスへの強い憧れ

徳富氏はイギリスに強い憧れをもっていました。
丸善の上客であり、英文をよく読み、特にイギリスの情報を積極的に取り入れていました。

日本を東洋のイギリスと誰が呼び出したのかは知らぬが、我らの少壮時代には、それが通り文句であり、またその時代の一部の人々は、日本を是非東洋のイギリスたらしむべく、一方で羨望し、一方で奮闘し、一方で努力した。すなわちそれほどまでにイギリスは日本にとって、一種の理想国であった

「皇国必勝論」P45

太平洋戦争中の昭和19年に出版された本でさえ、こう述べている徳富氏。

日英が対立する前の時代には、より純粋にイギリスを慕っていました。

たとえば日清戦争時、彼の30歳頃に出版された「大日本膨張論」のP80-81では、スペインとイギリスを比較して以下のように評しています。

スペイン人:
彼らは極めて現金主義を行う。雌鶏を養って、卵を産ませるよりも、殺してすぐに食べる手段をとれり。

イギリス人:
取れば必ず守り、守れば必ず失わず。(略)その功を収め、その果を握るのしっかりして堅きは、イギリスが今日において、世界に高歩するゆえんといわざるをえず。英国の膨張は独り軍隊の力のみに帰すべからず。またその政略の堅実貫透して、国民の堅固な猛志雄行によるのみ

べたぼめですね。

 

特徴2:強い人種差別意識 アジア人としての劣等感

イギリス人への憧れが強かった徳富氏。それだけに人種差別意識には敏感でした。

私が目を通した数冊の著作も、差別への反発に強く貫かれている印象です。

(欧米人は)日本国民をサルに接近したる人類と思い、もしくは人類に接近したるサルと思いたるに相違なし

彼らは獰猛なる蛮人が、とつぜん文明を模倣するを見て、ただ日本国民の模倣の巧妙たるに驚き、むしろ日本国民を侮る

「大日本膨張論」p109

 

大日本膨張論のP92には、こんな文もあります。

「山路将軍の出陣せんとするや、その友人に告げていわく『余は従来外国人と交際するを好まざりき。何となれば彼らどうもすれば、我を眼中に見下すのおもむきあるをもってなり。(略)しかれども、もしこの役(日清戦争)において、我が国が大武勲を建て、高顔世界に向かうの日においては、余は喜んで外国人と交際を欲するなり』

山路将軍とは陸軍中尉 山地元治氏のことです。

西洋への憧れの強さゆえに人種差別に苦しむ・・・これは高度成長期後の日本でもよく見られた感情でした。

 

特徴3:白人からの評価をめぐり中国をライバル視

欧米人は我が国をもって、自個と対等の地位におかざるのみならず、また清国とすら、対等の地位におかざるなり

「大日本膨張論」P35

日本人と中国人は同じように欧米人から差別される存在でした。しかし全く同じ扱いを受けていたわけではありませんでした。
徳富氏は、憧れのイギリス人が日本人より中国人を高く評価することに、納得いかないものを感じていたようです。

イギリスは支那をより高くかいかぶり、日本をより低く買い下げ、東亜の形勢においては、全く認識不足である

「大日本膨張論」 P130

また、以下のようにも述べています。

支那人は世界到る所に賤悪されておるなり、侮蔑せられいるなり、虐遇せられいるなり。彼らは牛馬のごとく駆使され、時としては猛獣毒蛇のごとく、放逐せらるるなり。しかれども総体の上において、これをいえば、彼らはむしろ畏れはばかられているなり。彼らは憎まれるも恐れられ、我ら(日本人は)親しまるるも侮らる。(略)

彼ら(欧米人)が支那人を畏れはばかるに丈け、日本人および日本国を馴れ侮るは、勢い止むを得ざるなり

同上 p35

この感想には、現代の日本人も、うなずくものがあるのではないでしょうか?

日清戦争に向けて、支那人の首を斬ることは大根を斬るのとかわらない(「大日本膨張論」P82)と書いた徳富氏ですが、イギリス人に中国贔屓が多いことに対する不安も同時に持っていました。

なので、日清戦争に勝利した後、イギリスの識者たちが日本に対して「大強国の一として、東洋においては蓋し最大強国」(大日本膨張論P131)などと書いたときは、大いにはしゃぎます。

征清の後の日本は世界的生活にはいり、国民をあげて世界に雄飛する

「大日本膨張論」p139

従来支那を称して眠れる獅子と西洋人はいい、一度これを醒覚する時には、忽ち百獣の王となるであろうと、半ば恐れ、半ば尊敬していたが、あにはからんや、日清戦争の結果、支那は眠れる獅子ではなくして、張り子の虎とわかった

「皇道日本の世界化」 P235

しかし、太平洋戦争の4年前に出た以下をみると、イギリスの日本と中国に対する評価が変わることは、結局なかったようです。

支那と日本を天秤にかけた時には、イギリスはいつも支那を重しとし、日本を軽しとした

「皇道日本の世界化」P233

 

徳富蘇峰と日本を変えた日英同盟の終わり

開国以来、イギリスに憧れてきた日本。
日清戦争後、日本の実力を認めたイギリス。

しばらく両国は蜜月関係になります。

日英同盟が結ばれ、日露戦争が始まり、日本は勝利しました。
白人からの人種差別に苦しんでいた日本にとって、大きな勝利でした。

第一次世界大戦にも連合国側として参加し、戦勝国側となります。

明治~敗戦までの期間で、日本が最も順調だった時期かもしれません。。

しかし英米側の都合により、1923年に日英同盟は事実上の失効となります。

アメリカの老政治家ハオス大佐は「日英同盟を頼みとして、何でもかんでも日本はイギリスは我に味方するものと一人ぎめにきめて、そのためにヴエルサイユ条約の際には、苦い経験をなめた」と指摘した

「皇道日本の世界化」P23

20年に渡った日本とイギリスの蜜月関係は終わりを告げます。

憧れ依存してきたイギリスが日本の前から去った・・・

それでも、しばらくの間、日本は強いイギリスに執着しつづけたといいます。

(太平洋戦争前に至るまでの)約20年の間には、種々の出来事があるが、一言にしていえば英国は常に日本の頭を押さえることにのみ汲々としている

しかるに日本はそれを知らずして、どこまでも日英同盟締結頃の日本として、ことわざにいう「悪女の深情け」ともいうような姿を以て、イギリスにすがりたることは、日本の外交史にとって、これほど屈辱はない

同上 P118

 

そして徳富氏はイギリスについて以下のように述べるようになります

(イギリスは)日本があまり弱くもなく、あまり強くもなく、あたかもイギリスの御用を勤むるに適当なるときは日本を愛撫し、盛んにおだて上げたが、日本がようやく自己の頭首をもたげかけた時には、イギリスはその態度を一変して、(略)日本を叩くことを一種の使命であるかの如しだ

(略)一本調子でイギリスを無二の親友となし、自ら東洋のイギリスをもって任じたる(日本の)崇英者をもって、気の毒千万と思うのみである。しかもその崇英者が、我が国のいわゆる支配階級に多かった

同上 P130

「気の毒千万」とありますが、彼の著作をみれば、彼もまたイギリスを崇拝する崇英者の一人だったといってよいでしょう。

現在の日本の「日英同盟」のwikiなどを見ると、イギリス側は日英同盟の解消を惜しんでいたかのような記述が見られます。

しかし、当時の日本で最も人気と権威があったジャーナリストである徳富氏がこういうなら、おそらく彼の言うことのほうが現実に近かったのでしょう。

 

日本を拒絶するイギリス

そしてイギリスは再びアジアでのパートナーに中国を選びます。

蒋介石には三重の人格がある。第一は支那人である。第二はソ連人である。第三はイギリス人である。彼は一方において共産党の代表者となった如く、またイギリス人の代表者ともなっている。

イギリスはしきりに蒋介石をけしかけて抗日をやらせている。
日本人はその本性を見抜かずして、あくまでイギリス人を我が味方と見、いかなる秘密もイギリス人にもらし、その秘密がまた手に取るごとく蒋介石にもれてきた

「皇道日本の世界化」P131

それでも徳富氏はイギリスの強さ、賢さもよくわかっています。
同じ「皇道日本の世界化」のなかで、彼はこう述べています。

我らは必ずしもイギリスを東亜より駆逐するというのではない(略)

いたずらに「英国討つべし」などという議論は、ただイギリスの感情を刺激するばかりでなく、決して我が皇道を世界に発揮するゆえんではない。

利害が衝突するからあくまで敵とならねばならぬという理由はない。いわゆる外交上の工作ということは、かかる場合において最も必要である

同上 P35

彼は日本は新勢力として古くからの勢力であるイギリスと同等の立場にたち、アジア内での日本の利益を追求すべきとしています。

われらはイギリスが速やかに転向して、日本を相手として争わず、日本とともにアジア問題を解決せんとするところの誠意を示す日の来らんことを望むものである

同上 P130

イギリスが日本と中国大陸でうまくやっていこうと希望してくれるなら、日本はイギリスと共存するという姿勢ですね。
現在の日本でも、そうあってほしかったと望む声をネット上でよくみます。

すでに太平洋戦争が始まっている時期に書かれた著作にも、こうあります。

我が国家の支配階級、知識階級、富と力の階級の人々は、いわゆる英米依存で、恐るるといわんよりもむしろ親しんでいた。されば如何に彼らが日本に向かって無理難題を持ちかけても、彼らに向かって戦端を開くということは、最も好まざるところであった。

「興亜の大義」 P15

しかし、その一方で彼は、イギリスは日本を敵視すると述べています。

イギリスは(第一次)世界大戦の後に、どうもすれば日本を目の敵として頭を押さえ、あるときにはアメリカを使い、あるときには支那を使い、あるときにはソ連を使い、またあるときには国際連盟を使って、始終日本のために良くなかれ、即ち悪しかれと、日本の邪魔をしてきたのである

「皇道日本の世界化」 P144

日本側がどう希望してようと関係なく、イギリスのほうが、もう、日本とやっていくことを望まなかった・・・

日英同盟の20年の間に、イギリスは日本人を詳しく理解し、そして愛想をつかした・・・ということだったのでしょうか。

日英同盟解消後のイギリスは日本と完全に敵対し、軟化のきざしさえ見せませんでした。この姿勢は第二次世界大戦の終結まで変わりませんでした。

 

「文明国」とは何か

徳富氏はイギリスが日本に敵対するようになった理由として、以下のような持論を述べています

    • イギリスは実利中心の国だから
    • イギリス人は他の民族を痛めつけて自分たちが得をすることが好きな民だから

イギリスの国民的精神は他国を苦しい目にあわせて、自分が利益をするということが、国民的精神である。

「皇道日本の世界化」P169

    • イギリスは自国が最も優れていないといやな国だから

一切の他国を自国以上に置くことは、イギリス人の腹の虫が承知しない。一切の他国を自国の以下に置かねば、腹の虫が承知しない

同上 P104

・・・しかし、果たして、どうでしょう?

イギリスは同じヨーロッパの民が争うように世界に飛び出した大航海時代の最終的な勝者でした。徳富氏いわく「恒に太陽の滅せざるを誇る」版図を持つに至った、知恵のある国です。

一方、当時の日本は鎖国をやめてから一世紀程度の国でした。

イギリスと日本。どちらの民の判断力がすぐれているか、客観的に考えれば言うまでもないでしょう。

一体、日本のどこが、イギリスを拒絶させたのでしょう・・・

 

日本のwikiによると、日露戦争後、ポーツマス条約を歓迎した徳富氏は以下のように述べたとあります。

図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。

ナポレオンを反面教師として語る・・彼からみて、日本とナポレオンは同じ目標を持った似た存在ということでしょうか?

また「大日本膨張論」P37の中にも、個人的にちょっとひっかかる下りがあります

「文明は往々野蛮より強し」というイギリス雑誌の文章の翻訳のあと、注意書きのように以下の文がカッコで付け加えられています

(常にとはいわず、然らずんば欧州は久しくすでにアジアを征服したるはずなり)

なんだか欧州は野蛮と思う国があれば征服しようとするのが当たり前みたいな文ですね。

彼は西洋列強の本質を、がむしゃらに征服したがるチンギス・ハーンと同じように捉えていたんじゃないかという気がします。手段こそ軍事のみに頼らず近代的だけれども、根本にある最終目的はやはりナポレオンやチンギス・ハーンのように征服の版図を広げたいのだと。そして、その最強のものがイギリスだと。

もしルーズヴェルトが、野村、来栖両大使の提案に同意したならば、存在したであろうグアム、ウェーキの諸島も米国の飛石となり、ハワイもまた米国の太平洋岸における一大安楽地として存在し、マレー半島も、シンガポールも、ビルマも現状を維持し、プリンス・オブ・ウェールズ号も(略)依然としてその雄姿を海上に浮かべていたろう

「興亜の大義」 P18

この太平洋戦争中に書かれた文章にも、徳富氏の領土や版図にこだわる姿勢が見てとれます。

 

しかし実際は、アングロ・サクソンの版図はナポレオンやチンギス・ハーンのようなやり方で広がったのではありません。

何年にもわたって各地の民と交流し、交渉をかさね、その民を知り、必要ならば植民地とした――

中国の植民地化のきっかけとなるアヘン戦争も、長年の国交の後、貿易問題が理由でおきた戦争です。

インドの植民地化も「大日本膨張論」の「個人の活動」の章によると、海外進出した個人が勝手に行った結果だとあります。イギリスという国の政権そのものはインドの植民地化を「国民の栄誉に反する」と反対していたそうです。
オーストラリア、西インド諸島の植民地化もそうだったとあります。

しかしイギリスが版図を広げた経緯を知って徳富氏が考えたことは、日本人も個人が海外に積極的に進出=「膨張」すべきというものでした。
―――結果と目的が逆になってる。

日本の欧化主義者たちは日本とイギリスを並べて文明国と呼んでいたけれど、
日本とイギリスがそれぞれ抱いていた文明国像は、かなり隔たりがあったのかもしれません。

日本人は西洋文化に憧れ真似るけれども、西洋文化を理解しようとしない―――

徳富氏の著作を読むと、現在もみられるこの問題点が、戦前からあったのだという印象を受けます。

ナポレオンの帝国も、チンギス・ハーンの大帝国も、版図こそ広かったものの、長い期間はもちませんでした。
ナポレオンは軍人として成り上がったものの、同じ西洋人のリーダーたちから否定され、武力を失うと身内にも背を向けられ、孤独な最期になりました。

 

イギリスの日本に対する厳しい評価の意味

19世紀までの間に、イギリス人は命がけで広く世界を開拓し、あらゆる民族を知り、序列をつけてきました。友たりうる民から、単なる奴隷まで・・・

過去記事「日本軍が中国で起こそうとした孔子革命 驚きの占領の実態」 で取り上げたように
当時の日本人の中にも、伝統的な日本の正義観や道徳観を保持し、それを近い文化を持つ周辺国と共有しようという、高い理想を抱いた人たちもいました。

「文明は往々野蛮よりも強しといえども、国産の野蛮は往々にして模倣的文明よりも強きことを発見すべし」

「大日本膨張論」P37内

徳富氏いわく当時のイギリスで最も高尚で健全なる雑誌「スペクラートル」が、上記のように述べたとあるなら、イギリスは、ひょっとしたら彼らのことは評価したかもしれません。

しかし当時、イギリス人の周りに集まった日本人たち・・・日本がアジアのイギリスになることを望み、イギリスの模倣を好んだ崇英者たちの大多数は、それではなかったでしょう。

―――日本人は東アジアの覇権をとるに、ふさわしい民ではない

彼らをみて、イギリス人はそう判断したのかもしれません。
(関連記事:「明治期のイギリス大使が日本に向けた不吉な予言」)

もし、イギリスが敵対したとわかった時点で、徳富氏のような人々が、崇英を貫き、イギリスが去ったのはイギリスが悪いのではなく、日本に欠けているところがあったからと考えていたら・・・・・
そして、その問題点を探す作業にはいっていたら、もしかしたら日本の未来は違ったものになっていたかもしれません。

しかし、人種差別意識からくる劣等感にとらわれている彼らは、アングロ・サクソンが黄色人を見下しているからだと、英米憎しに走ります。

友達はどこにいるか。誰であるか。吾々は、ここに吾々が最も敬愛するドイツ、および今日においてはドイツ国民の総統として、ドイツ国民を単に物質的に率いるばかりでなく、精神的にも率いるヒトラー閣下に向かって、敬意を表す次第であります。

「皇道日本の世界化」P138

ヒトラーは大衆を惹きつけるカリスマ性はあったものの、中身は教養の低い空想家にすぎません・・・

ナチスをパートナーに選んだ国は、世界広しといえども、日本とイタリアあとはブルガリア、ルーマニアといった、ドイツとソ連の境目にある無力な5か国だけでした。
北欧フィンランドはソ連との国境問題でナチスと利害が一致し、一部で協力したにもかかわらず、深入りしようとはしませんでした。

当時の世界のリーダーたちからみると、ヒトラーとナチスはそれだけ胡散臭い存在だったということでしょう。

それにすがってしまった日本・・・イギリスの日本への厳しい評価を、日本自ら証明してしまった、といったところでしょうか。

(イギリス人たちが言うには)日本の軍人は支那を滅ぼす力はない。ただ日本の軍人の力は自分の国、すなわち日本を滅ぼすだけの力をもっているだけである

「皇道日本の世界化」P165

この痛烈な批判、そして本当にその通りになった歴史――――イギリス人の叡智はおそろしいぐらいです。

 

A級戦犯容疑の男が抱いた意外な天皇像

熊本出身の徳富氏は洋学校に学び、西洋の学問そして聖書に惹きつけられました。
彼は熱心な仲間たちと共にキリスト教に入信します。洗礼を施したのが同志社大学の創設者、新島襄であることはよく知られています。

しかし徳富氏の信仰生活は長く続かず、彼はキリスト教に失望し、距離をおきはじめます。

理由はイギリスの近代革命期に政治家になったミルトンやクロムウェルのようなクリスチャンが日本にはいなかったからだそうです。

 

軍国主義の強まりとともに、彼は皇室中心の国家主義にのめりこみます。
そして国家の御用ジャーナリスト、政界の裏方で世論操作を行う人物として、出世していきます。

1897年、第二次松方内閣の勅任参事官になり、その後の桂太郎内閣とも深い関係をもちました。
太平洋戦争中の1943年には文化勲章を受章します。

現在では弟で文学者の徳富蘆花のほうが有名かもしれませんが、戦前は兄のほうが圧倒的に成功していたようです。

 

おもしろいことに、徳富氏は20代の頃、父親とともに熊本の大江村に私塾「大江義塾」をひらくのですが、そのとき彼らに住宅を斡旋したのが、明治天皇のお気に入りの儒学者、元田永孚でした。
(元田永孚とは?→「教育勅語を生んだ幼学綱要をめぐる衝突」)
二人は同じ熊本出身なのですね。

wikiには徳富氏は儒教と距離をおいていたとありますが、イギリスと日本が決別した後に書かれた「皇道日本の世界化」には孟子や老子といった東洋思想の人物の名前も見られます。

その書にある天皇観が、また興味深いです。

元来我が皇道は、広大無邉のものである。釈迦も、孔子も、キリストも、詮じて来れば、我が皇道の一方面の任を蓋す者にすぎない。

我が皇道の下には、東亜の民族ばかりでなく、世界の民族もまたその堵に安んじ、その業を楽しむことができるのである

「皇道日本の世界化」P47

この内容、以下に引用する、過去記事「イギリスBBCが取材した高度成長期の日本の信仰。「日本人らしさ」はここから生まれた?」でとりあげた、阿弥陀仏の描写に似ていませんか?

阿弥陀仏の愛は太陽より暖かく、どんな母の愛より大きい(略)

他宗教の人たち含め、すべての人たちは最後は阿弥陀仏の愛のもと浄土に行きつく

当時は神仏分離から半世紀ほどの時期であり、神道は単独できちんとした体系を持っていませんでした。現在に至っても、そうかもしれませんね。

―――徳富氏は彼の中にある理想を天皇に重ねたのでしょうか・・

イギリスに憧れ、キリスト教に入信し、イギリスから拒まれ、さまよった彼が天皇に期待したものが、阿弥陀仏に似たものだった・・・

もしかしたら、こうした理想を持ってしまうことこそ、どんなに外国文化を真似ようと、日本人の血からおのずと湧き出てくる独自性、日本人らしさというものなのかもしれません。

 

******

敗戦後、徳富氏はふたたびキリスト教に歩み寄り、葬儀も本人の希望でキリスト教式で行われたといいます。wikiを見てもキリスト教関係の縁者がめだちますね。

覇権国イギリスへの憧れと、日本人としての血との間で揺れ続けた彼の人生は、明治~敗戦までの日本社会の写し絵といえるでしょう。

 

現代に及ぶ日本の世論の下地を生んだ徳富蘇峰

過去記事「日本軍が中国で起こそうとした孔子革命 驚きの占領の実態
明治~戦前の偉人たちを生んだ漢学 これが本来の日本の道徳」に登場したのは旧制中学、師範学校を出た戦前の知識層でした。こうした人々は国民全体の2割程度しかいなかったとされています。

一方、政府側として世論操作も担っていた徳富氏の著作は、国民全体に広く読まれていました。

義務教育は12歳まで?小学校の次にまた小学校?戦前戦中の日本の教育」で参照した資料によると、士官などのエリートを除いた日本軍の一般兵の学歴で、もっとも多かったのが小卒、次が高等小学校卒だったとあります。

100万部ちかく出版されていた徳富氏の本は、こうした層にも読まれていたとみていいでしょう。

徳富氏の本の内容は、現在、大多数の日本人が持っている国際観、自国意識と、あまりかわりません。

大衆的な思想だったからこそ、彼に近い考えが、現在でも日本では深く根付いているのかもしれません

 

 

国会図書館サイト(無料で閲覧できます)
「大日本膨張論」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783468
「皇道日本の世界化」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267993

「皇国必勝論」、「興亜の大義」も国会図書館サイトで検索すれば閲覧できます。

http://www.christian-center.jp/dsweek/14sp/0611_04.html

 

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