日本の伝統に思うこと

義務教育は12歳まで?小学校の次にまた小学校?戦前戦中の日本の教育

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手塚治虫の妹さんの逸話から考える詰め込み教育」で触れた手塚さんの妹さんの元同級生の方から、戦争中の学校についての、おもしろいお話を聞くことができました。

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終戦時、この女性は13歳だったそうです。

当時は中学校がとても少なく、電車に乗らないと旧制中学/女学校に通えなかったといいます。

交通機関を使わなくてはならないほど中学校が少ないって、今の感覚だと驚きですよね。しかも、この状態は戦争に関係なく、以前から続いていたといいます。
この方が住んでいたのは手塚治虫さんの出身地の近くです。なので、それほど田舎ではありません。

調べてみると、戦前の義務教育は尋常小学校=現在の小学校6年生の年齢までだったそうです。

wikiの高等小学校のページによると

1936年(昭和11年)の統計では尋常小学校卒業者の66%が進学した。

とあります。7割近くが進学していたというなら、やはり電車に乗ってまで通学というのは、中学校の数が少なすぎる気がします。

wiki以外を検索してみると、Yahoo知恵袋に、かなりわかりやすい説明がありました。

尋常小学校(義務教育:昔は4年、昭和戦前は6年)が終わると、だいたい次の進路に分かれます。

1.中学校(5年間:女子は高等女学校)→エリート

2.高等小学校(2年間)→学力や経済的理由などで中学校へ行けなかった人

3.各種の工学校、農学校など(高等農業専門学校や高等商業専門学校とは異なる)

4.そのまま家事手伝いや丁稚奉公など(夜にそのような少年少女のために青年学校に通う場合もあり)

(略)
ちなみに、当時の軍隊の兵隊(士官などエリートでなく)の学歴調査で、一番多いのが小卒、次が高等小学校卒です。

当時は小学校でも、中学校でもない、高等小学校というものがあったんですね。驚きです。

またwikiによると、終戦間際の時期の尋常小学校、高等小学校は、「国民学校」という名前で呼ばれていたとあります。

国民学校(こくみんがっこう)とは、日中戦争後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校。

1941年の国民学校令によって設立される。
尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年)に改組。

これは戦後生まれの世代にはあまり知られていない情報かもしれないですね。

私がお話を伺った女性は、知恵袋の引用の1にあてはまります。「エリート」に分類される中学校・・・女性なので、高等女学校にいた方です。確かに旧華族ではありませんが名門の生まれです。

女性の入学時は戦争による物資、人材の枯渇がピークだった時期です。以下、彼女の話を引用です。

女学校は普通なら入学試験をパスしないと入れなかった。

でも私の入学年は、(戦争末期だったため)試験がなく、希望者全員が入学できた。そのため、私の学年は上の学年から「無試験組」と呼ばれた。

 

この時期は、制服のデザインや生地、丈まで、どこの学校、どの生徒も同じだった。学校に行っても、授業は二時間ぐらいしかなかった。

あとの時間は、ずっと行進の練習をさせられていた。

理由はわからない。何かあったときすぐ動けるように?
(よくマスコミで話題になるような)竹槍の訓練はなかった。

上の学年の先輩は軍需工場に行かされていた。

行進?聞いた私にとって最も衝撃的だった点でした。本当に謎ですね・・・

松脂(松ヤニ)を取らされた。
二人の生徒で一本の木を担当した。
樹皮をむいて幹に傷をつけて、そこから垂れる松脂(樹液)が容器たまるのを待った。
松脂は燃料にした。

松脂。現代の日本人で具体的に知ってる人は少ないでしょう。それほど実用的なものだったのでしょうか?

調べてみると以下のような記事が見つかりました。

戦争末期、航空燃料不足を補うため、松の幹を切り込んで松ヤニを採取、精製した。

産経ニュース

wikiによると

松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。

アメリカに石油の輸入を妨害されたことが日本の真珠湾攻撃の理由のひとつと聞いていましたが・・・こうやって、いろいろ苦心して、石油の代わりを調達しようとしてたんですね。

 

敗戦まで英語の教育は行われていなかった。マレー語と中国語を学んだ。中国語はシナ語と呼ばれていた。敗戦後、マレー語の先生は英語の先生になった。

マレー語は東南アジアのマレー系民族の言葉ですね。シンガポールの公用語のひとつでもあります。

戦後生まれでマレー語に詳しい日本人はあまりいないでしょう。でも、当時の日本人にとって、マレー語は今よりも身近な言葉だったんでしょうね。

 

敗戦後、昭和22年に学校教育法が施行されました。現在と同じ6・3制の教育制度になり、女性は高校に進学します。
高校はこれまでと違って、男女共学でした。女生徒はとても少なかったそうです。

(男子が通った)旧制中学では漢文を教えていたが、女学校では教えていなかった。
高校で共学になって、最初から普通に漢文の授業があり、全くわからず、非常に困った。
男子生徒は漢文を白文(帰り点や送りがなが無い漢文)ですらすら読めた

 

高校ではドイツ語、中国語、英語、家庭科、簿記の5つの選択科目があった。

家業を継ぐ人は簿記を選択、進学希望者は英語を選択する人が多かった。

女子は家庭科を選択するのが望ましいと教師は言っていた

6・3制になっても、この時期はまだ現在の高等学校の科目とはだいぶ違ったんですね。ドイツ語なんて、現在だと大学進学しないと履修できないでしょう。

 

戦前、戦中の日本はマレー語、ドイツ語、漢文と、いろいろな文化圏の要素を教育に取り入れていたようです。

これと比べると、戦後日本の国際教育は、ちょっと英語圏に偏りすぎかもしれませんね。

 

 

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