中国のサイトには一般的な日本人が知らない日本の歴史の話がよく載っています。
今回は百度百科から、琉球王朝の王族の話を紹介しましょう。
琉球王朝、最後の国王は名を尚泰(しょうたい、ショーテー)といいます。
彼には尚濬という10歳以上年上の兄がいましたが、尚泰が幼い頃、わずか13歳で亡くなりました。そのため尚泰がわずか6歳で王位を継ぐことになりました。
尚弼という弟もおり、彼は琉球消滅後も尚泰の代理をつとめたりしながら兄、尚泰とともに歩み、後に日本政府により男爵に叙せられます。
尚泰は若いうちから中国の冊封を求めてきましたが、太平天国の乱やアヘン戦争の混乱により準備が遅れ、1866年、20代半ば頃にようやく儀式を行うことができました。そして、それが最後の冊封となります。
1871年、明治政府は廃藩置県を行います。
このとき、琉球をどうするかが日本政府内で議論されました。
当時、大蔵大輔だった井上馨は琉球の併呑を主張します。一方、左院(明治期の立法監査機関)は琉球は清と日本の両方に従属すべきと反対しました。しかし彼らも、琉球が日本に従属することを明確にする必要は認めていました。
結局、この時の明治政府は尚泰を琉球藩を治める華族に任命し、外交を制限する決定で終わりました。
その頃,沖縄特使として鹿児島県から来た奈良原繁と伊地知貞馨は、琉球の内政改革を勧告するとともに、琉球人の祖先は平安武士の源 為朝であり、琉球人は日本人と同じ文化、同じ民族であると説きました。一方、清の皇帝は満州族で蛮族であり、孟子孔子を信奉しない者さえ受け入れ、イギリスの脅威を大げさに言っていると訴え、琉球に日本への帰属を促しました。
沖縄人の先祖が源為朝?
ちょっと驚きの説ですね。
日本のwikiで源氏の家系をたどって源為朝について調べてみたところ、兄は源義朝。つまり、あの鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父のようです。
琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。
保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され、運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁(ナキジン)でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名づけました。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。妻子が為朝の帰りを待ちわびたところが牧港(マチナト・まきみなと)と名づけられ、その尊敦と名乗る子が後の舜天王だという話です。沖縄県立総合教育センター
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch2/toitu_5.htmより
いや、びっくりです。明治期はこんな説があったんですね。当時の「日琉同祖論」を裏付ける説のひとつだったようです。
1879年、琉球が沖縄県になり、首里城明け渡しが行われると、尚泰は日本政府から東京に移住することを求められます。尚泰は病気と称して渋りますが、催促され結局、王族ら百人余りとともに東京に移住します。
首里城明け渡しの五年後,日本政府は尚泰に5か月間、沖縄に戻って祖先を祀ることを許可します。彼の帰郷に琉球の人たちはとても喜びました。そして、これが尚泰が沖縄の地を踏む最後の機会になりました。
沖縄帰郷の翌年、尚泰は侯爵に叙せられます。
そして大阪で丸一商店を設立し、琉球の品を本土で販売し商売を始め,大きな利益を得ました。1890年には貴族院議員に当選します。
1901年に59歳で病死すると、尚泰の棺は琉球に送られ、王家の陵墓に入りました。
彼を弔ったのは琉球王家の菩提寺である円覚寺でした。その後、戦災で焼失したといいます。
甲午戦争の後、尚泰の子である尚寅、尚顺は”公同会運動”を開始し、尚家世襲による沖縄県の高度な自治を求めるものの、失敗に終わります。
そして最期の王である父、尚泰の死をもって、長男の尚典ら琉球王族は琉球の伝統を捨て、日本の華族の中に溶け込んでいきます。琉球語も日本語にあらためました。
尚泰の四男、尚順の孫である悦子は宗教家 五井昌久の養女になり、西園寺裕夫氏と結婚し西園寺昌美と改名しました。現在は白光真宏会の会長をしているそうです。
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