ブログ 日本の伝統に思うこと

いつまでも子供な高学歴エリートは日本の破壊者か

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竹中平蔵さんの発言と南青山の児相問題は似てる?

「貧しくなる自由」は竹中さんが言うからトンデモ発言

昨年の終わりに偶然、東洋経済の竹中平蔵氏のインタビューを目にしてから、ずっとひっかかってる部分があります。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と

昭和を知る世代で、この竹中氏の発言にモヤモヤする人は、私だけではないのではないかと思います。

この違和感は、何なのでしょう?

竹中氏は「貧しくなる自由」を選択した人を、優等生が不良のクラスメイトを評するような目でみてます。
「遊び暮らしてるのは勝手だけど、他の頑張ってる生徒の足を引っ張るな」というわけですね。

まあ、正論といえば、正論です。
でも、還暦を超えてる竹中さんが言うから、おかしいのです。

社会的地位が高く、それなりに権力もある竹中さんは、日本社会において「生徒」ではなく「先生」です。長老的な立場と年齢の人です。
若い人は、生徒ですね。

「先生」は生徒が失敗しないよう導き、結果が出せないなら自分の責任だと恥じ、より学校(社会)がうまくいくよう、精進しなくてはと思うべき立場の人でしょう。
「がんばらないなら、ご勝手に」と言い捨てるのは、クラスメイトなら許されるけど、先生ならトンデモ発言です。

ちょっと過去記事「道徳が消えた隙間に入った言葉「自己責任」が導く先とは?」で取り上げた、若い先生みたいな感じですね。

 

40歳を過ぎても大人になれない南青山の住民たち

これと似た印象を受けたニュースが、もうひとつあります。
昨年終わりから世間を騒がせていた、南青山の児童相談所の建設問題です。

以下はデイリー新潮の記事にある、南青山に移住して10年になる40代女性の意見です

「都心のこれだけの場所にわざわざ児童相談所を作る必要があるのって思いますし、みんな口にはしにくいけど、他所に作って欲しいって思ってるはず。私の友人の間ではそういう意見が多い。南青山に住むって、それなりに努力して来た人達じゃないですか。お金の面でも、税金の面でも、決して安くないですよ。差別みたいに聞こえるかもしれませんけど、もともとの街の雰囲気とかあるじゃないですか。わかります?」

この方は、南青山に住めることを、努力してきた「ごほうび」かなにかだと思ってるみたいです。

「私たちは、がんばったごほうびにケーキをもらえた。
がんばらなかった他の人(の子)が同じケーキをもらうなんて、おかしい」

子供が、こんなことを口走ってる感じでしょうか?

 

ネット上では「何を努力したというんだ?」というツッコミがありますが、おそらく努力して「いい学校、いい会社、いい人生」のレールに乗り、南青山の不動産を買えるほど頑張った、という意味でしょう。

今の日本の40代以下で、サラリーマンで高収入の人は、ほとんどが有名大学の卒業者ですね。
こうした人々は間違いなく「努力してきた」人たちです。
高い偏差値を取るには、生まれつきの資質も重要ですが、地味な作業を計画的に勤勉に継続できる本人の精神力も、同じぐらい重要です。

つまり彼らの不満は「努力を重ねた私たちが得た生活環境が、子供を児童相談所に入れるような自堕落な人の子に邪魔されるのはおかしい」というところでしょう・・・竹中さんと同じような視点を感じます。

これも子供や学生が言うなら、おかしくないのです。
でも、既に40代の社会人が、自分の努力に対しての「ごほうび」を社会に認めさせようという???

私自身も第二次ベビーブーム世代の40代ですが、この年令は本来なら、ごほうびをあげる立場のはずですね。
社会に期待するのではなく、現在の社会を支え、よりよくするために動かなくてはならない大人です。

南青山に児童相談所ができるなら、そうした場所が必要な子供が増える社会にしてしまった自分たちを、恥じなくてはならない年代のはずでしょう。

 

他にも「南青山は自分でしっかりお金を稼いで住むべき土地」などといった、建設反対派の発言が報道されています。
実際、反対派は元から住んでいた人ではなく、新しく不動産を手にいれた移住派に多いといわれています。

・・・思えば、バブル期は今よりお金持ちが多かったですが、公の場で反対派のような言動をする人は、私の知る限りだと、いませんでした。

本来なら社会を守り導かなくてはならないはずの、長老的、中堅的な立場の人たちが、いつまでも子供っぽさから抜け出せない・・・

これは「失われた30年」の間の世代交代により起きた、とても大きな変化ではないかと思います。

 

日本にノーブレス・オブリージを期待できない理由

この南青山の反対派に関しては、
ノーブレス・オブリージを引き合いにだして批判する方をよく見かけます。

ノーブレス オブリージ(Noblesse Oblige)は

「貴族や上流階級に生まれたものは、高潔な振る舞いと、社会の恵まれない人に対する慈愛の心が求められる」

という、ヨーロッパ由来の言葉です。ノーブレスとは貴族、オブリージは義務という意味ですね。

・・・欧米では、代々続く上流の家ほどキリスト教に熱心なことが多いです。
日本では宗教はどちらかというと困窮者の現実逃避というイメージですが、
白人の歴史にとってみれば、先祖が世界の覇権を取り、富を得ることができたのは、キリスト教信仰のおかげなわけです。神に祝福され、恵まれた環境にあった家系ほど、キリスト教をやめる理由がないのです。
(関連記事:
ダイアナ元妃の死の背景 キリスト教とイギリス王室
黄色人は白人より知能が高いのに、白人が世界の覇権を握った理由」)

――――人が裕福な家に生まれたのも、貧しい家に生まれたのも、本人の努力や意思ではなく、神の配剤によるものである

”貴族に生まれた人もまた、神の考えによってその位置に並べられた石の一つにすぎない。
ならば、その位置にあるものとして、できるかぎり神の期待に沿う行動をするべきである。”

それがノーブレス・オブリージです。

このようにキリスト教信仰が背景にあるのですから、
キリスト教文化がない日本のお金持ちに、ノーブレス・オブリージを期待するのは、ちょっと違うわけです。

 

欧米文化はノーブレス・オブリージのような良い面だけでなく、異民族の奴隷化や、人種差別といったマイナスの面にも、キリスト教の裏付けがあります。
利益だけを目当てに、気まぐれにやってるわけではないのです。だからこそ廃絶が難しいともいえますが。

キリスト教でも、下に述べる儒教でも、ひとつの社会に長く根付いてきた文化というものは
一部が悪く見えても、総合的にみるとバランスが取れ、辻褄が合うようになっています。
一部だけ切り取って、良い、悪いと評価するのは難しいです。

(関連記事:
日本人はヤペテの子孫?白人も白熱する「ノアの子孫」論争
日本人がついていけない聖書エピソード5選 脱亜入欧できない真の理由」)

 

「いい学校 いい会社」神話の正体

敗戦前の日本において、多くの庶民は大学どころか、中学進学さえできませんでした。
(関連記事:「義務教育は12歳まで?小学校の次にまた小学校?戦前戦中の日本の教育」)

敗戦時、日本の人口およそ7200万に対し、大学の在校生の人口は7万6千人ほどだったそうです。
現在は、約256万人です。

学費の高い中学、高校に進み、大学まで進学できるのは、裕福だったり、運良く支援者を持つ人だけでした。

その分、競争がさほど激しくなく、偏差値というものもありませんでした。

学歴のある人間の絶対数が少なかったので、余程のことがないかぎり、大卒者は自動的に高い社会的地位につけました。

戦前世代は大卒というだけで、周囲から、ゆくゆくは社会を引っ張っていく人間として扱われたのでした。

「学問さえあれば・・・」「大学にさえ行ければ・・・」
彼らを見上げる庶民の目には、大学進学と高い社会的地位は結び付いていたことでしょう。

―――そして、敗戦した。

アメリカが来て、学制が変わり、社会も変わって、高度成長期を迎えた。

かつては中学進学さえ不可能だった多くの庶民が「学力さえ高ければ」大学に進学できるようになった。

雲の上の存在だった旧帝大にも入学できるようになった・・・。

戦前に生まれ、戦後に親になった人たちにとって、子の未来が一気に広がったように感じられたことでしょう。

受験戦争というものが起きたのも、無理はありません。

 

戦後の平等社会が生んだ「成り上がり」たち

「いい学校に行って、いい会社に入れば、いい人生が歩める」

庶民出身の高度成長期の親たちは、そう子供にはっぱをかけました。
それが、彼らの知る精一杯だったからです。

果たして、それが正しいことなのかは、自身は大学に行ってないので、わからない。アメリカがきて、貧富の差、生まれ持った家柄の差が少なくなった戦後社会に抱いた、夢だったともいえるでしょう・・・

「親が喜んでくれる」
「出世してえらい人になれる」
「根暗だと自分をバカにした同世代を見下せる」

そうした「ごほうび」につられて、高度成長期以降の受験生たちは勉強してきました。

結果、優秀な成績を叩き出して親よりも高学歴になり、文字通り「いい学校→いい会社」の「勝ち組」ルートを歩んだ人も多いですね。

 

受験戦争に勝ち抜いた高学歴が学ばなかったこと

偏差値の高い学校に進学し、いい就職先を得て、栄えある道を歩むことになった戦後の高学歴たち。

彼らは

「努力して実力で地位をつかむべき」
「頑張った人は認められるべき」

といったことは、たくさん学んできましたが、

「いざ高い地位になった人は、どう振る舞うべきか」

については、学ぶ機会がありませんでした。

そのため、学校の勉強の延長のように「業績の数字を上げること」だと思い込んでる人が多いですね。

 

儒教国であることを捨てた日本

「高い地位にある人、高い知識を持つ人は、そうでない人を導かなくてはならない」

これは昭和まで日本で続いた、儒教の教えです。

戦前までは学校で教えてたでしょうが、戦後だと、言葉や文章にしてきちんと教えられることは、ないでしょう。

上世代は自分たちの背中を見て学んでくれることを期待してたかもしれませんが

「それは古い考えだ」
「アメリカやヨーロッパの先進国はそんなんじゃない」

と、無価値と判断されてしまったら、どうしようもなかったでしょう。

印刷技術がなかった時代に生まれた儒教は、もともとは権力者に、あるべき道を学ばせるためのものでした。

権力者が徳を備えれば、それに従う下々もよくなる。それで儒教は目下の者は目上の者に従えという教えなのですね。

明治~戦前の日本が、社会の指導層の卵である旧制中高の生徒にだけ、漢学(儒教)を主要教科にさせたのも、そうした歴史からでしょう。
(関連記事:「明治~戦前の偉人たちを生んだ漢学 これが本来の日本の道徳」)

 

増える高学歴 やせ細る大企業

「いい学校に入学して、いい会社に入る。そうすれば、安定した地位、高い収入という『ごほうび』がもらえる。」
そう信じて、努力して勉強してきた子どもたち。

彼らを毎年、大量に採用していったのが、日本の大企業です。

ここで「ごほうびをくれる大人」は何でしょう?

それは、彼らに「入れば一生安泰」と思わせた、「経済大国 日本」の大企業の信頼性とブランド力です

そして、そのほとんどを築いたのは、彼ら自身ではなく、戦前教育を受けた上世代です。

今までの努力のゴールにたどりついた子供たちは、「ごほうび」をもらえて当たり前だと、組織にぶらさがる。
出世した人も、その地位を、他より良い成績をおさめた「ごほうび」だと思ってる。

 

いくら学力が高くても、一生養ってもらう気でいる「子供」ばかり抱えていれば、どんなにしっかりした大人だって、疲弊していきます。

その結果が、失われた30年の間、失墜するばかりだった日本の大企業のブランド力でしょう。

 

昨年、こんなニュースが報道されましたね。

「NECが末期状態…1万6千人削減→また3千人削減、事業売却の連続で稼ぐ事業消滅」 ビジネスジャーナル

私の若い頃の知り合いに、この会社に入った人がたくさんいました。90年代は誰もがこの会社を「入れば一生安泰」な会社だとみていました。皆が彼らの就職の成功を祝福しました。

・・・彼らは今、どうしているのかと思います。

 

ソニーも、30年前はトヨタ以上のブランドだったことを思えば、見る影もありません。「日本の誇り」だったソニーは当時、東大生をはじめとする高学歴に、最も人気のある企業でした。
(関連記事:「若い世代ほど知ってほしい トヨタ以上だった日本の栄光 ソニーの凋落」)

 

今の日本は学歴下剋上を起こしていい時

「ごほうび」に釣られて「がんばって」勉強して順調にレールにのり、上世代が築いた「経済大国 日本」という船の中でも、最も良い席を手に入れた戦後生まれの高学歴たち・・・

しかし、彼ら高い偏差値の人が舵取りするようになった後の「経済大国 日本」という船は、傷つき、他国に抜かれ、迷走するばかりです。

 

30年前の「天国のような国」を破壊したのは誰なのか?

昭和の時代、日本を主導してきたのは戦前教育世代でした。高度成長期は彼らの下で築かれました。
バブル期を迎えた頃さえ、首相も、大企業のトップも、公立学校の校長先生まで、戦前教育世代だらけでした。

バブル期のただ中だった1990年ごろ、日本は欧米人から「天国のような国」だと言われていると聞きました。
裕福で、差別もない、まるで夢のような国だと・・・

そして、この90年代、「経済大国を作った戦前世代、失われた20年の戦後世代」で取り上げましたように、戦前教育世代は定年退職を迎え社会から引退し、戦後エリートが「経済大国 日本」を引き継ぎました。

その後「天国のような国」はどうなったのか?

バブル崩壊後、経済はひっくり返った亀のように回復できない・・・。
国の借金が信じられないほど増えた。
世界2位だった一人あたりGDPは25位まで下がった。
貧困に苦しむ子供、結婚できない若者を増やした。

―――ほかにも、悪化したことは、数えきれないぐらいです。

そして欧米人には「私が10歳の日本人なら、ただちにこの国を去るでしょう」などと言われる始末・・・。

これが戦後世代の高学歴エリートが、失われた30年の間に築いた「実績」です。
自分もこの時代の大卒の一人だからこそいいますが、もう「破壊者」レベルです。

それでも、過去に勉強を「がんばった」「努力してきた」のだから、そのすり減った日本社会から「ごほうび」をもらうべき立場だと、思い違いをしてる人が少なくないのです。しかも、あつかましくも、高学歴でない人を押しのけることを「特権」とすら思っています。

 

現在の日本の高学歴エリートの実績は「衰退」だけ

これで「エリート」「偏差値」に、どんな価値があるというのでしょう?

そもそも、私たちを序列つける偏差値に権威を与えたのは、その制度を作った上世代の教育関係者ですね。

偏差値とは、まだ自分の人生を歩いてない年齢の子供たちに、外部の人々が便宜上、貼ったラベルにすぎないのです。

高偏差値をとった人々の社会貢献度の高さゆえに、高偏差値に価値が生じたわけじゃないのです。

しかも偏差値制度というもの自体、まだ半世紀もたってないしろものです。

今の日本だと、学生時代の偏差値が低かった人は、高学歴エリートに対して引け目がある傾向ですね。
しかし、今の時代は、実際には「高学歴エリートたちの失敗を、日本全体が尻拭いされられてる時代」なのです。ならば、日本中の誰でも、偏差値なんて気にせず、堂々と彼らに自分の考えや疑問をぶつけていいと思います。

耳をかたむけず
「低学歴が生意気だ」とか
「頑張ってない人、努力してない人に、とやかく言われたくない」
などと怒る人がいたら
それは「学力は高くても知性はない」人でしょう。

 

https://www.nikkei.com/article/DGXDZO23766470R20C11A2EE8001/

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