世界の中の日本 日本人の知らないアメリカ

アメリカ国籍がもらえなかった戦前の日本人移民たち

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アメリカによる日系/日本人差別というと、よく取り上げられるのが戦中の強制収容所ですね。
この収容所や第442連隊戦闘団のことは、戦争の起こした悲劇として、今でも日本人の間でよく話題になります。

でも、実は日本人がアメリカで差別を受けてきたのは、戦争のずっと前からなのです。この点は、ほとんど触れられることがありません。

恥ずかしながら、私は今回書く件を知るまで
「戦前、中国人はアメリカ人から差別され排斥されたけれど、日本人は差別を受けず白人から文明国の民とみなされていた」・・・などといった、2ch等でよく見る書き込みを半ば信じていました。

こうした事実でない書き込みをする人たち、または彼らに事実でない情報を与えた人たちは、日本人がかつてアメリカから他アジア人と変わらぬ差別を受けていたことを、恥と捉えているのかもしれません。

でも、それを否定して歴史から切り捨ててしまっては、辛い思いをした日本人たちの苦労が浮かばれませんね。

 

ブラジル移民と大差なかったアメリカ移民

以下、全米日系博物館(Japanese American National Museum)という日系サイトにある「日系アメリカ人に関する年表」 を引用します

1882年
中国人排斥法の成立。新たな労働力として日系移民が奨励される。しかし、帰化不能外国人として、アジア系移民は1952年まで市民になれなかった。

1885年
(明治18年)ハワイの砂糖農場が大量の労働者を求めた事を契機に、日本人の本格的な移民が始まる。

1890年代
アメリカ本土への移民が始まる。

1905年
さまざまな排日政策、移民制限が始まる。

1908年
既移民者による親族や、写真花嫁による女性の呼び寄せが急増する。

1913年
排日目的の「外国人土地所有禁止法」が成立した。

1924年
全面的な移民禁止、「排日移民法」が実施される。当時の日系総数7万人。

その後、1941年に日米開戦し、42年には日本人/日系人が強制収容されます。

日米開戦の20年近く前である1924年から、既に日本人の移民が禁止されていたとは驚きです。

 

>(明治18年)ハワイの砂糖農場が大量の労働者を求めた事を契機に、日本人の本格的な移民が始まる。

戦前、アメリカに渡った日本人の多くは低賃金の肉体労働者でした。彼らは主に白人が経営するプランテーションで働きました。

仕事はブラジル移民とあまり変わらなかったようですね。
給料が少なすぎて、帰国しようにもできない人が多かった点も同じでした。
(関連記事:「NHK-BS1スペシャルで知る戦前、戦後のブラジル移民の現実」)

>帰化不能外国人として、アジア系移民は1952年まで市民になれなかった

これ、きついですね。
日本人は移住後、どんなに懸命に働いても、アメリカのために尽くしても、アメリカ市民権を得ることを許されなかったわけです。日本で生まれた日本人は、戦後に法改正される1952年まで、誰も日系アメリカ人になることはできませんでした。

 

ピクチャーブライド(写真花嫁)

当時、渡米した日本人の大多数は仕事を求めてきた肉体労働者・・・つまり男性でした。

市民権を持てない彼らがアメリカに根を生やす最良の道は、アメリカ市民権を持つ人を身内に持つことです。特にアメリカ生まれの自分の子供を持てば、アメリカ市民の親になれます。
アメリカに生まれさえすれば、どんな人でもアメリカ人として認められるのは、よく知られていることですね。

しかしブラジルでもそうだったように、アジア系はアメリカ人たちから、自国に同化すべき民とみなされていませんでした。
(関連記事:「日系ブラジル人が日本人らしさを失った理由」)

雇われ労働者の日本人男性と結婚して、子をもうけようと思うアメリカ女性は、ほとんどいなかったのです。

 

そこで、彼らは母国日本から花嫁を呼び寄せます。

ピクチャーブライド(picture bride 写真花嫁)ってご存知でしょうか?
現在の日本ではほとんど知られていませんが、アメリカではwikiに専用ページがあるほど、当時の日本人のエピソードとして有名なようです。

親戚のつてや斡旋業者を頼って、彼らは日本の女性と写真だけを交換し、結婚の約束をし、アメリカに呼び寄せました。

彼らを雇うプランテーションの主たちも、彼らが結婚すれば、ギャンブルやアヘンを吸うことを控え、道徳的に向上するのではないかと期待しました
(日本人がアヘンを吸っていたとは驚きですが、英語版wikiにはそうあります)



ロサンゼルス図書館に残る当時のお見合い写真
 

アメリカからの求めに応じて、日本からいろいろな立場の女性たちがアメリカに旅立ちました。

経済的な困窮から嫁ぎ先を探していた女性、
おとなしく周囲からの勧め(縁談)に乗った女性、
当時の封建的な家制度からの逃げ場を求めていた女性、
そして、周囲の同世代の女性が写真花嫁になったのに影響されて、自分もアメリカに行ってみようと思った女性・・・

戦前の日本では結婚当日まで相手の顔を知らないなんてこともあったといわれてます。写真交換だけの結婚も、現在の感覚で考えるよりは受け入れられやすかったのかもしれません。

1907年から日本人の移民が禁じられる直前の1923年までの間に、ハワイだけで1.4万人を超える「写真花嫁」の移民がありました。

 

写真しか知らない相手のもとに嫁いだ女性たち。着いてみると、思いがけないことも多々あったようです。実際に会ってみたら、写真とは大違いの高齢の男性だったりとか・・・そして、ほとんどの男性が貧しい生活をしていました。

「働かなくては、食べていけない」

そんな思いで、日本人妻たちは働いたといいます。日本人は韓国人など他の移民と較べてもプランテーションで働く女性の割合が高かったそうです。

プランテーションの白人経営者たちは、女性の日本人労働者にも、男性と同じだけの量の仕事を割り当てました。しかし、彼女らに支払われる賃金は男性より2,3割少ないものでした。

「仕方ない」「我慢」といった言葉が、高齢になったかつての写真花嫁たちへのインタビュー記事には見られます。

 

アメリカに根付いた日系人たち

苦労を重ねながらも日本人女性たちは子を産み、育てました。念願のアメリカ国籍を持つ子供たちです。
子どもたちの人口は増え続けました。日米開戦後、日本人収容所に入れられたうちの2/3はアメリカ国籍だったといわれています。

その後1960年ごろまで、日系はアメリカで最も多いアジア系でした。特にハワイでは2010年前まで白人の次に人口が多く、日系コミュニティは強い発言力を持つに至りました。
(関連記事:「ハワイに異変!白人の次に多いのは日系でも中華系でもなく、なんと」)

日本の右派からも人気が高い故ダニエル・イノウエ氏もハワイを地盤にした日系政治家でしたね。
ホノルル国際空港がダニエル・イノウエ国際空港に改名されたりまでしたとか。

ちなみにこの時代に移民した日本人の子孫としてアメリカで最も有名なのが、ジョージ・タケイ(スタートレックで「カトー」と呼ばれていた船員を演じた俳優)です。
このカトー(加藤)という役の名前は日本向け放送用に改めて作られたもので、アメリカ本国版の名前は「ヒカル・スールー」だったんだとか。びっくり。
 
http://articles.latimes.com/1995-05-11/news/cb-64865_1_picture-bride
https://www.kcet.org/shows/departures/japanese-picture-brides-building-a-family-through-photographs
http://encyclopedia.densho.org/Picture_brides/

 

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