褒める教育で育てられたはずの若い世代は、もっと自信をもって積極的に困難に挑戦する人が出てきてもよさそうなものなのに、かえって慎重になり、上のどの世代よりも保守的になっているように見えることすらあります。
海外に出ることを好まず、リスクが高いので恋人もつくらない、経済的な不確実性を抱えることになるので結婚にも消極的である、といった傾向が強まっている
「日本人はなぜ「挑戦」しなくなったか~失敗を恐れる脳はこう作られる」現代ビジネス
このように、若者が保守的であることを不思議がる上の世代は多いです・・・。
上世代と較べて、褒められ、意見を尊重されながら育ったはずの若者世代・・・普通に考えれば、上のどの世代よりも自信に満ちた世代になりそうなのに、なぜ逆にみられることのほうが多いのでしょう?彼らの特徴をあらわす「草食系」という言葉も、すっかり定着しました。
・・・この若い世代が育てられた時代の教育とは、実際のところ、どのようなものだったのでしょうか?
若者が保守的な理由 それは自由が生んだ慢性的な不安
「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。親孝行?……そんなこと、考えなくていい。家の心配?……そんなこと考えなくていい」と、一度は、子どもの背中を叩いてあげる。それでこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。
頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅くないから、子どものうしろを歩く。決して前を歩かない。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ
上の文は、はやし浩司氏という団塊世代の教育評論家によるものです。
金沢大学法学部を経て、オーストラリア国費留学、そして三井物産の元社員という華々しい経歴の方です。
このはやし氏が「ファミリス」(静岡県教育委員会発行)に 2001年9月号から2002年4月号に連載した文が掲載されている「子供がかわるとき」というサイトがあります。
個人的に、非常に興味深く読みました。なぜなら、バブル期-90年代に人気をあつめ広まったと私が記憶する教育論の典型的なものだったからです。
つまり、今の若い世代が幼い時代に影響力があった教育論ということですね。
(検索すると現在のはやし氏はオカルト的な活動で話題になることも多いようですが、「子供がかわるとき」にある教育論が、当時、一般的に信奉されていた内容なのは確かです)
親は子供に自由を与えるべき、親とは別の一人の人間として子供を尊重するべき・・・こうした意見は当時、団塊以下の世代を中心に強く支持されました。学校における体罰の禁止が推し進められた背景にあったのも、こうした意見でした。
そして、ここにこそ、「保守的で草食的な若者」が生まれた原点があるかもしれません。
それは、なぜでしょう・・?
「頭の体操」の著者として有名な多湖輝という方をご存知でしょうか?若い方にはレベルファイブの「レイトン教授」シリーズの監修をした方といったほうがわかりやすいかもしれません。
はやし氏より20歳ほど年齢が上の、戦前生まれの方です。すでに亡くなっています。
この方の著書「お金の心理術」の中に、興味深い文があります。
(1980年代はじめ)永谷園のブラブラ社員制度が話題になったことがある。二年間、会社の仕事は何もしなくていいから、新製品のアイデアを見つけてこいというもので、そのためには、外国旅行に行こうが何をしようが、とにかくいくらお金を使ってもいいというのである。この話をきいて、うらやましいと思ったサラリーマンはけっして少なくなかったはずだ。
しかし、実際はどうだったかというと、ブラブラ社員が感じたプレッシャーは相当なものだったらしい。当初は、来なくていいといわれた会社に、毎朝きちんと出社してくる人もいたそうだし、好きなだけ使っていいといわれたお金も、それほどの金額にはならなかったそうだ。
人は、なんでも自由にやっていいと言われると、ひじょうに不安になり、かえって自分で自分の行動を規制するようになる。逆に、人から「こうしろ、ああしろ」「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」などと規制されると、反発を感じやすく、そのためにわざとその規制を破ろうとすることもある
「人は、なんでも自由にやっていいと言われると、ひじょうに不安になり、かえって自分で自分の行動を規制するようになる」・・・上の文から考えると、幼い頃から「あなたがどうしたいかが一番大事」などと、周りの大人に自由を押し付けられてきた若者世代は、常に不安だったということになります。
今どきの若者の特徴とされる、上世代の若い頃よりも強く褒め言葉をほしがる傾向、いわゆる「承認欲求」も、もしかしたら、この上世代が知らない強い不安を抱えて生きてきたせいかもしれません。
褒め言葉を貰えれば、一瞬だけでも自己肯定でき、安心できますからね。
もちろん、よく理由として取り上げられる「褒めて育てる」ブームの影響もあるかもしれませんが。
権威主義の長所とは?
はやし氏は、親子を断絶させる要因の一つとして、親の権威主義を挙げています。
「私は親だ」というのが権威主義。「子どものことは、私が一番よく知っている」「子どもは親に従うべき」と言う親ほど、あぶない。
あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころを思い出してみてほしい。そのときあなたは子どもの横か、うしろを歩いていただろうか。そうであれば、それでよし。しかしあなたが子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていたとする
なら、あなたと子どものリズムは、そのときから狂い始めていたとみる。おけいこ塾でも何でも、あなたは子どもの意思を無視して、勝手に決めていたはずだ。今もそうだ。これからもそうだ。
そしてあなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。
そして、はやし氏は「権威主義は百害あって一利なし」と結んでいます。
・・・でも、日本人は権威が好きですね。
一流大学に入りたがるし
ブランド力のある名門企業に入りたがる。
テレビがコメンテーターとして呼ぶ人も〇〇大学の教授など権威のある人ばかりです。
それは、なぜなのか?
・・・権威は人に安心を与えてくれるのです。
良い学校、良い会社、高い地位、多くの財産
それらがもたらすものとは、結局、安心なのです。
団塊世代を育てた大人たちは戦前教育を受けた世代でした。彼らは厳格で親や教師の権威をふりかざし、子供と同等の立場に立とうとしませんでした。
はやし氏や彼に近い立場の教育論者たちは、そうした戦前世代の姿勢に反感を持っていたかもしれません。
しかし
「お父さんはえらい、お母さんは正しい、大人は子供をひっぱっていく存在だ」
・・・子供が幼いときに、そう親や教師の権威を信じることは、未熟な心に安心を与えていたのかもしれません。
たとえ、思春期後になって、その権威が実は大したことない人物だったと気づいたとしても。
90年代の知識人たちが夢見た幻
さて、この大人の権威を否定する教育論者たちが理想とした家族観とは、どんなものだったのでしょう?
はやし氏のサイトに、ちょうどバブル~90年代に溢れてたようなサンプルがのっています。
日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてきた。
欧米先進国を理想化して日本の伝統的な価値観を否定する・・・これは、はやし氏に限らず、日本の知識人によくみられることです。「欧米先進国」が一種の”権威”になってしまっているわけですw
ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」と
いう映画を見たが、あの中でも、深い家族愛がテーマになっていた。「国のためには戦わない」と言う欧米人も、「家族のためなら、命がけで戦う」と言う
団塊~現在のアラフォーぐらいまでの世代は、テレビや映画などで知った欧米人の家族観を理想とする人たちが多いです。
テレビが普及してまもなく放送されたアメリカドラマ「パパは何でも知っている」などが映す、のびのびとして物質的にも豊かなアメリカの家庭が、貧しかった日本人の憧れを呼びました
(関連記事:「戦後の日本人の原風景はアメリカドラマ」)
私を含む第二次ベビーブーム世代も、80年代生まれ以降よりは厳格な環境で育ちましたが、やはりこうした理想を良しとする風潮の中にいました。
・・・今にして思うと、現実の生身の家族関係を、映画など虚構にすぎない作品に近づけようとすること自体、地に足がついてなかったような気もしますが・・・。
また、欧米キリスト教圏において、権威を司る存在は神です。
「日本人がついていけない聖書エピソード5選 脱亜入欧できない真の理由」で取り上げましたように、たとえ親子の間に愛があっても、いざ神の前にくれば親も子もありません。アブラハムが神の命じるまま息子イサクを殺そうとしたように、個人と個人です。そこから友達親子のような関係も生まれてくるのでしょう。
欧米人の親子の情は、親が子を自分の一部のように愛する東洋人のそれとは違うかもしれません。欧米人が恋人や家族への愛を頻繁に口にするのは、キリスト教文化圏だと個人同士の連帯が東アジアより希薄なため、常に強化するための努力が必要だからという説を過去に読んだこともあります。人間同士の連帯の薄さは不安を生みますが、何世代にもわたる社会をあげての神への信仰が、それに代わる安心感を与えているのでしょう。
加えて、日本人はハリウッド映画などを見て、アメリカ人というのは単純で家族思いでヒーロー好きだなどと決めつけがちなところもありますね。
しかし実際は、日本人に受けそうもないという理由からなのか?日本に入ってこない欧米の作品はたくさんあります。確かに収益の見込みのない作品を輸入して、翻訳や吹き替えの手間をかけようという筋はあまりないでしょう。高名な賞をとった作品なら別ですが。
日本人が触れる欧米コンテンツ=伝統や価値観の違う日本人にも受けそうな作品=家族愛や恋愛をテーマにした作品、という結果になっているだけなのかもしれません。要する普遍的であたりさわりのない作品です。
足場を奪われて育った若者たち
戦前までの日本では儒教の影響が強かったです。そこでは親の権威は絶対でした。バブル世代の親ぐらいまで、それは引き継がれていました。
しかし団塊以降の世代が親になる割合が増えていくにつれて、親や教師の権威は否定され、また彼ら自身も権威であることを放棄するようになっていきます。高度成長期から貫かれた欧米先進国への憧れもそれを強く後押ししました。
しかし日本にはキリスト教国のような、社会全体に行き渡っている信仰はありません。
権威を消滅させたけれども、代わりに安心を与えてくれる新しい権威はない。
これでは、子供は何を止まり木にしたらいいか、わかりませんね。
迷って、不安で、どうしたらいいか尋ねたときでさえ「自分で考えてごらん」と突き放される。「子供の自立心を養う」という立派な名目のもと・・・
今どきの若者、つまり20代~30代前半生まれの人々の親は1950-60年代生まれの方が多いですね。戦前、戦中生まれの大人たちに育てられた世代です。
(関連記事:「誤解されがち?実は優秀?1960年代生まれ=バブル世代の特徴7つ」)
自らは厳格に育てられた親たちは、なぜ子供世代は自分たちの若かった頃と違って、興味の幅がせまく保守的なのだろうと首をかしげます。「自分たちは親世代とちがって、子供の意思を尊重する自由な教育を心がけたのに」と。
・・・でも、しっかりした足場がなければ、鳥だって高く飛びたてません。
若者の恋愛離れの理由とは?
私は20代~30代序盤の人が十人以上集まる場所に、定期的に顔をだしています。もう一年以上になります
彼ら若いひとたちは、みんなお互い親しく、穏やかな関係を築いています。
異性を前にすると緊張してしまうといった人は殆ど見ません。私が若かった90年代よりも、異性の友人を持ちやすい雰囲気です。
にもかかわらず、彼らの間で恋愛はほとんどみられません。
一人だけ、いわゆるコミュ力の高い人がいて、その人物に人気が集中するといった具合です。
若い男女が、これだけ集まって、この状態・・・第二次ベビーブーム世代の私から見たら、驚きの現実です。
恋愛に関心が低い若い世代を目の当たりにして、驚く上世代は私だけではないですね。
「若者の恋愛離れ」という言葉や
「恋愛はコスパが悪い」と考える方向に若者が進化中」(ポストセブン)などといった記事を頻繁に見かけます
・・・上世代は若者になぜ恋愛しないか尋ね、コスパが悪いなどという返答を聞いて、納得してます。
でも上世代自身、自分たちのことををふりかえれば、コスパだの、いろいろ理屈を考えながら恋愛してはいなかったはずです。
恋愛感情や異性を求める気持ちというのは、ほっておいても勝手にわいてきてしまうもので、理由を聞かれても答えられなかったのではないでしょうか?
「若者の恋愛離れ」の実態とは、若者が理屈や効率を考えた末に恋愛しなくなったというより、
彼らが上世代と較べて身近な異性に対してときめきにくい、もしくはときめきが弱い傾向にあるというのが正しいのかもしれません。
それは、もしかしたら上記した、彼ら世代全体が幼い頃から抱いてきただろう不安感と関係があるのかもしれません。上世代には想像もつかない、けれど彼らにとっては自覚することもないほど、あって当たり前の不安感です。
恋愛というのは子供をやめて親になり、新しい巣を築く原動力です。
でも子供時代からずっと慢性的に不安では、本能的にそんな気分になれないかもしれないです・・・
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