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このサイトはキリスト教に関心を持つ方がよく訪れてくださるようです。なので、今回の記事を出すのは、ちょっとドキドキです。
ですが、そうした方々も、以下のエピソードが日本人には理解しがたいという点は、納得してくださるのではないかと思います。
簡単なあらすじにしてますが、セリフ部分は聖書のものをそのまま引用しています。
キリスト教・ユダヤ教共通 旧約聖書編
神のため息子を手にかける父親
ユダヤ民族の祖アブラハムと正妻サラの間にはイサクという息子がありました。
(関連記事「なぜ争う?キリスト教の神とイスラム教のアッラーは同じ神」)
高齢な夫妻にとって、イサクはただ一人の子でした。
あるとき神はアブラハムにこう言いました。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」
(燔祭とは古代ユダヤ教の儀式で、いけにえを祭壇上で焼き、神にささげることです)
アブラハムは神の指示どおり山に行き、祭壇を築き、幼いイサクを縛って、焚き木の上に乗せました。
アブラハムが刃物を取って、イサクを殺そうとしたとき、主の使いが天から彼を呼びました。
「わらべを手にかけてはならない。また彼に何もしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子さえわたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」
そして神はアブラハムを褒め称え、アブラハムの子孫を増やし祝福することを約束します。
「あなたが私の言葉にしたがったからである」
旧約聖書 創世記22章
これ、初めて読んだときは意味がわかりませんでした。「神の試み」だということですが、何度読み返しても理解できませんでした。今も共感は難しいですね。
次男を偏愛し長男を陥れる母
アブラハムの子イサクは成長し、リベカ(レベッカ)という妻を得ます。
リベカはみごもり、双子の男の子を産みます。兄の名をエサウ、弟の名をヤコブといいました。
父イサクは狩猟が好きなエサウを愛しましたが、母リベカは物静かなヤコブを愛しました。
イサクは老い衰え目がかすむようになりました。彼はエサウを呼んでいいました。
「わたしは年老いて、いつ死ぬかもしれない。それであなたの武器、弓矢をもって野に出かけ、わたしのために、鹿の肉をとってきて、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよう」
(父の祝福とは跡継ぎの儀式のようなもののようです)
この話を聞いた母リベカは、ヤコブに良いヤギを二匹連れてきなさいと命じます。それで料理をつくってイサクを騙し、エサウのかわりにヤコブに父の祝福をうけさせようというのです。
ヤコブは父にばれたら祝福どころか、のろいを受けるとためらいます。
「子よ、あなたが受けるのろいはわたしが受けます」
母リベカはそう応じ、ヤコブに兄の晴れ着を着せ、イサクのもとに行かせます。
ヤコブは父の前で長子エサウだと名乗り、よわった父を欺いて、祝福を受けます。
やがてエサウが鹿を手に入れて戻り、父のもとに向かいます。
対面した父子はリベカとヤコブに欺かれたと知ります。しかし、もうどうしようもありません。
イサクの跡取りはヤコブとなり、エサウは生家を離れることとなりました。
旧約聖書 創世記 27章
・・・やがてヤコブは神に祝福され、イスラエルと名のることを許されます。ユダヤ系の民にとって、ヤコブが現在でも大きな存在であることがわかりますね。
弟を偏愛し、兄を冷遇する母というと、徳川家光の母 お江の話が有名です。
日本人は家光に同情しがちですね。実母はお江ではないのでは?と疑う声も珍しくありません。
・・・でも聖書の世界なら、家光の実母はお江で間違いないでしょう。
不倫相手の夫を謀殺する王
イスラエルの王ダビデはあるとき、非常に美しい女を目にします。女はバテシバといい、ダビデの家来ヨアブの配下にいるウリヤという男の妻でした。
ダビデは人をつかわしてバテシバを連れてこさせ、関係をもちます。人妻バテシバは妊娠し、ダビデにそれを知らせます。
ウリヤが邪魔になったダビデは、家来ヨアブに手紙を書きます。
「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後ろから退いて、彼を討ち死にさせよ」
バテシバはウリヤの死を悲しみますが、喪がすぎたあとダビデのもとに嫁ぎ、男児を産みます。
神はダビデの行動を怒り、使いをよこして戒めます。ダビデは罪を認めたため、死は免れることになりましたが、バテシバが産んだ子は死ぬと告げられます。
やがて予言どおり、バテシバとダビデの息子は病気になりました。ダビデは神に嘆願し、断食し、泣いて、終夜地に伏しました。
しかし子が死んだとわかると、ダビデは嘆くことなく起き上がり、体を洗い、自宅で食事を取り始めました。
彼の行動を不思議がる家来たちに、彼はこう答えます。
「子の生きている間にわたしが断食して泣いたのは、主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくれるかもしれないと思ったからです。しかし今は死んだので、私はどうして断食しなければならないのでしょうか」
バテシバは再びダビデの子を身ごもり、男の子を産みました。
その子はソロモンと名付けられます。(日本でも名前は有名ですね)
神に愛されたソロモンは父王ダビデの後をつぎ、富と智慧において地上のすべての王にまさる王となりました。
旧約聖書 サムエル記11-12章 および歴代志下より
「ウリヤがあまりにもかわいそう」
そう思ってしまった日本人は、私だけではないと思います。
ダビデ王はデビッドという名の由来です。デビッドという名の欧米人は現在でも珍しくありません。そのぐらいダビデ王は西欧では英雄です。ミケランジェロのダビデ像も有名ですね
イエス・キリストが活躍 新約聖書編
慈悲深いと表現されがちなキリスト教・・・
ユダヤ教と比べると、確かにそう感じます。
それでも、やっぱり、日本人の感覚では理解しがたい点が存在します。
トラブルメーカー イエス・キリスト
地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
わたしよりも父または母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛するものは、わたしにふさわしくない
マタイ伝 第10章(原文ママ)
「和を以て尊しとなす」という聖徳太子の言葉を誇る日本人としては・・・どうでしょう?
家族のつながりを重視する中華圏でも、イエスのような人を受け入れるのは難しいかもしれませんね。
資本主義者 イエス・キリスト
イエスは天国とはこのようなものだと、以下の内容の説法を行います。
ある人が旅に出るとき、彼のしもべたちにその財産を預けました。それぞれの能力に応じて、一人に5タラント(通貨の名)、一人に2タラント、一人に1タラントを与えて旅に出ました。
5タラントと2タラントを預かったしもべたちは、それぞれ商売をして、預かった金額を倍にしました。
しかし1タラント預かった者は、地面に穴をほってそのお金を隠しておきました。
旅から帰った主人は、儲けた二人を褒め称えます。
そして1タラント預かったものが地にお金を隠しておいたと知ると、「悪い怠惰なしもべ」と罵ります。
そして、その地に隠しておいた1タラントを取り上げて、5タラントを10タラントにふやした者に渡すよう命じます。
「おおよそ持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗いところに追い出すがよい。彼はそこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」
イエスはこう締めくくります。
マタイ伝 第25章より
・・・人から預かったお金に手をつけないでおくって、そんなに悪いことなんでしょうか?
ユダヤ社会と日本の常識が違うだけ?
それにしても"豊かなものは、より豊かに"とか、ちまたで話題になる資本主義の特徴そのものですね。
近代化にあわせて「資本主義」という呼び名がつけられただけで、キリスト教/ユダヤ教文化圏では古代からこうした文化だったのかもしれません。
おまけ いちじくを呪い枯らすイエス
出かけた時イエスは空腹をおぼえられた。
そして葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当たらなかった。
いちじくの季節でなかったからである。
そこで、イエスはその木に向かって
「今から後いつまでも、おまえの実を食べるものがないように」といわれた。
弟子たちはこれを聞いていた。(略)
(翌日)朝早く道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根本から枯れているのを見た。使徒ペテロは思い出してイエスに言った。
「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」
マルコ伝 第11章(原文ママ)
それからイエスは「何でも祈り求めるものは、すでに叶えられたと信じなさいと」いった説法に入ります。
・・・これ最も人間味あふれるイエスのエピソードかと思います。
でも日本人が抱く「神の子」イメージからすると、ちょっと人間的すぎるかも??
※以上の原本は、日本聖書教会 1985年版です。
日本人が欧米に抱く、もやっとした違和感の正体
過去記事「明治~戦前の偉人たちを生んだ漢学 これが本来の日本の道徳」の冒頭で、アメリカの大学生が皆、聖書の十戒を知っているという件にふれました。
今の時代でも、欧米に住む白人で、聖書に目を通したことがないという人は、まずいないんじゃないかと思います。
個人的に宗教に無関心だったり、反感をもっていたとしても、彼らの生きる社会はキリスト教徒の先祖が作った法律、規範のもと動いています。
聖書は彼らの道徳、価値基準の源なのです。
つまり日本人がこの書に対して持つ違和感とは、まさに
「ここがヘンだよ欧米人!」ということです。
私の高校の頃の社会科の教師はキリスト教を厳しい宗教と評していました。
日本と違い、自然環境の厳しい砂漠の地域で生まれた宗教なので、生き残るための智慧として厳しい宗教になったのだと。
たしかに「イギリスBBCが取材した高度成長期の日本の信仰。「日本人らしさ」はここから生まれた? 」でとりあげた「阿弥陀仏の愛のもとすべてのものは浄土に導かれる」などといった日本の宗教と比べると、厳しいといえるかもしれません。
過去記事「アメリカに住む日系人 他アジア系と違う点は?」でのべたように
バブル期以降に欧米に移住した日本人は同じ日本人とつるみたがらない傾向です。
しかし、その穴を埋めるのは、白人ではなく、日本以外のアジア系移民ということが少なくないようです。
欧米人と言葉が通じるようになっても、その背後にあるものが違いすぎるゆえなのかもしれません・・・。
それでも日本人に聖書をすすめたい理由
聖書は一般的には日本人にとって、理解が難しい本です。
でも、だからこそ、日本人に役立つ本でもあります。
特に北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどでビジネス、留学、移住を考えてる方には断然おすすめしたいです。
実体験で語る日本人が聖書を読むメリット3つ
1.相手の出方がわかって有利になる
「異文化の書」聖書を読み、欧米人がどのような価値観で動いているか理解しておくことは、交渉等において日本人を有利にします。
日本人は欧米人相手になると振り回され、相手の主張をただ鵜呑みにすることが多いですね。
でも、彼らがどうしてそう思うのかが理解できると、だいぶ違います。
2.一人よがりの誤解を減らせる
日本人は西洋文化圏に夢や憧れを抱きがちです。
欧米人に対しては無条件にポジティブなフィルターを通して接してしまう人をよく目にします。
しかし聖書は日本人が勝手に抱いたイメージでない、実際の彼らの思考原理を教えてくれます。
日本人によくある、彼らの言動への自己流解釈や誤解(やんわり注意されたのに励まされたと勘違い...とか)をへらすことができるかと思います。
3.欧米人と親しくなりやすくなる
西欧文化圏では信仰を非常に大切に考えている人が少なくありません。こちらが聖書の知識を持っているとわかると、知り合って短期間でも心を開いた深い話をしてくれることもあります。
また無知ゆえに、うっかり彼らのタブーを冒してしまい、内心閉口されるなんてことも減るでしょう。
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個人的には、聖書は、世にある日本と西洋の文化比較の本を百冊読むより、役にたつ本だと思います。
日本人には新約のほうが馴染みやすいと思いますが、ぜひ旧約も読むことをおすすめします。
この記事では日本文化と聖書の「違う」点を集中的に紹介しました。
しかし聖書はそれだけでなく、深い智慧を感じる内容も多いです。さすが二千年以上も読みつがれてきただけあります。
どんな文化に生まれた人にとっても、読んで後悔はない本でしょう。
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