前々回の記事「これが今時の日本の道徳の教科書!昭和世代なら愕然の中身とは?」・・・ご覧になった方は、どう思われたでしょう?
特にグラフのあたり・・・情報だけ与えて、判断は読み手に丸投げ・・・これって、どうなんでしょうね?
たとえば、このグラフ「あなたは人の気持ちがわかる人間になりたいですか?」
これを見て、レアケースでしょうが、
「人の気持ちがわかる必要がないと思う人が5%もいる。100人中5人じゃ意外に多い。皆と同じである必要ないんだ」
と考えた読み手がいたとします。
そして、そのとおりに生きて、痛手にあったとしても、この文部科学省の道徳の本の姿勢としては
「それは、グラフをそう解釈した当人の自己責任だ。わたしたちは情報提供しただけだ」
と、いうことになるのでしょうか・・・。
ある若い中学教師のはなし
・・・以下は近年聞いた、知ってる中学校の、ある女性教諭の話です。
大学を出てまもない20代前半。若いですが、中1クラスの担任を任されるあたり、それなりの経歴の持ち主なのでしょう。
しかし、この先生、生徒たちから
宿題をやってこなくてもいいか訊かれても、
読書感想文を一行しか書かなくてもいいか訊かれても、
「あなたがそうしたいなら、そうすれば?」
と答えるそうです。
この先生は、中1の単元を成し遂げるためには、この宿題が必要、読書感想文を書くことが必要、という通知はする。
でも、宿題をやらないことや、感想文を手抜きすることを、悪いことだとはいわない。
サボりや手抜きによって評価が下がったとしても、
それは本人がそうしたいからそうした結果であって、生徒自身の責任だ・・・というスタンスなのでしょう。
生徒に悪い評価を目の当たりにさせ、失敗を経験させることによって、自己反省を促すという意図がある・・・そう彼女の行動を解釈する人もいるかもしれません.
でも、通知だけはしっかりするけど、どうすべきかを明言せず、生徒の判断に何もかもまかせて、責任も生徒に帰させる。これが指導だというのなら・・・
この先生役は、人間がやる必要がない。もうAI(人工知能)に置き換えてもいいんじゃないか?・・・私などは、そう思います。
生徒たちも、すでに中1です。そんなことをしたらよくないと、本当はわかってる。でも、なんとなく安心感がほしくて、あとちょっと先生を試すようなところもあって、そんなことを言ったのでしょう。
それで先生にそう返されたら、ちょっと鼻白んでしまいますね。
・・・でも、私はこの大学を出たばかりという若い先生を、非難する気にはなれませんでした。
おそらく、この先生自身が、周囲の大人からそう言われて、ここまで育ったのだろう・・・そんな気がしたからです。
だから彼女は、生徒たち相手に、悪びれることなく堂々とこう口にすることができたのでしょう。
「あなたがそうしたいなら、そうすれば?」
「義務を果たす」ことと「教育」は別
「若者は自分の信じたとおりに進めばいい
失敗したっていいじゃないか
失敗して、そこから学べばいい
一度しかない人生。やりたいことをやればいい」
今の日本には、こんなふうな言葉があふれています。
戦後教育を受けている団塊世代以下の大人たちは、大多数がこういうスタンスではないでしょうか?
一見、格好いいことのように見えます。
でも、これって実際は大量の卵を海に産みっぱなしにする魚介類とかと変わらないですよね。
ただ放任。自由にさせてるだけです。
「子供の意思にまかせている」
・・・これって保護者側にとっては、魔法の言葉です。
子供がその意思によって決めたことに対して、責任をとらなくてもいい。
なおかつ、子供を信じ自由を与えてる良い保護者のように自分自身をみなすことができる。
子供の行く手を阻まないので、子供に嫌われることもない・・・
・・・若者は未熟です。自分の判断だけを信じた結果、比較的恵まれない人生を歩むことになるかもしれない。
でも、それは本人の決めたこと、本人の判断によって生じること、よって自己責任・・・保護者側は失敗しようと成功しようと、子の意思を尊重する。
・・・それで、よかったのでしょうか?
野生動物の子育てをみても、親は自分がここまで生き抜いてきたコツを必死に子供に伝えようとします。
親の教えることを軽んじる子の多くは、死ぬでしょう。
親が教える気がなかったとしても、同じですね。
子供の意思を尊重し、望み通りにしてやることは、確かに保護者として義務を果たしているといえるかもしれません。
でも、未熟な存在である子供の人生がよりよくなるよう導くこと・・・「教育」に関してはどうでしょう?
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