「アメリカ頼みの戦争の末路 日本人なら絶対に知っておくべきベトナム戦争(前)」のつづきです。
「箱舟はいっぱい」
南ベトナムから米軍が去ることは、南ベトナムの民にとって絶望を意味します。
当時、アメリカ軍に協力的でいた南ベトナム人の多くは英語がよくわからず、テレビやラジオも持たず、パリ講和会議の内容を知りませんでした。
けれども、知れば、アメリカ軍に対する暴動だって起きかねません。
そこでアメリカ軍は一般市民に知らせず、内密に撤収することを決定します。
アメリカ兵が軍施設からこっそりいなくなる計画です。
しかしアメリカ兵たちも、南ベトナム人たちをこのまま敵の前に放置するのは忍びないと、一部の人たちを一緒にアメリカにつれていくことにします。
―――どのような人たちがアメリカに連れていってもらえたのでしょう?
それは米軍施設でコックを勤めていた者、米兵から直接指令を受けていた南ベトナム兵など、アメリカ兵たちと個人的に親しくなっていた者たちでした。
―――アメリカ兵とのコネを持たない一般の南ベトナムの民は置き去りにされたということです。
アメリカ兵たちは、前もって選んだ南ベトナム人たちだけに内密に計画を知らせ、共にベトナムを離れてアメリカに移住するよう誘います。
そして米軍が完全撤退する少し前に、選ばれた人たちは家族を連れ、近所の人たちに何もいわず内密で米軍と待ち合わせをし、米兵たちと一緒にアメリカに向かう船や飛行機に乗り・・・そしてベトナム系移民になりました。
アメリカのアジア系の中で日系以上にベトナム系アメリカ人が多いのは、こうした過去も背景にあるんですね。
(アメリカに日系人って多いの?→「アメリカに住む日系人 他アジア系と違う点は?」)
・・・ふと思ったんですが、
これ、ドラえもん作者の藤子不二雄F氏・・・故 藤本弘氏の短編「箱舟はいっぱい」のラストに似ていませんか?
この作品は1974年に描かれました。そして米軍のベトナム撤退は前年の73年・・・
藤本氏は米軍撤退時の事情を知っていたのでしょうか・・・
内密にベトナムを去ろうとしたアメリカ軍。それでも彼らが去る直前、撤収をかぎつけた多くの南ベトナム人が軍施設を取り囲み、入れてくれるよう、逃してくれるよう懇願したといいます。
警備がいなくなった後、もぬけの殻になった施設に押し寄せた人々は、怒りのあまり施設を破壊したりしたそうです
日に10発の弾丸しか支給されない兵
・・・その後も、戦争は続きます。
撤退後もアメリカは軍用機や兵器などを残し、金銭面でのサポートを約束していました。
しかし、ニクソンがウォーター・ゲート事件で失脚した後に行われた議会選挙で、南ベトナム支援に厳しい姿勢の議員が多数派になります。
結果、議会は南ベトナムへの支援額の減額を決定します。
南ベトナム経済は米軍が駐留していた間に、米軍に依存するものに変わっていました。
減額は大きな打撃になりました。
またオイルショックによる燃料費の高騰も南ベトナムを追い詰めました。米軍は軍用機などを残してくれましたが、燃料は南ベトナム側で調達しなくてはなりませんでした。
戦争末期、南ベトナム軍の兵士には一日に10発程度の弾丸しか支給されなかったそうです。
米軍が去って一年あまりたった1975年春、南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落し、ベトナム戦争は終わりとなります。
この戦争における南ベトナム兵の死者はおよそ25万4千人。それに対しアメリカ兵の死者は5万8千人でした。アメリカ兵一人に対し、4倍以上の割合で南ベトナム兵は死んだことになります。
「勝者から罵られ、同盟相手には見捨てられ、司令官によって大いに混乱させられ続けた軍」
英語版wikiには、かつて南ベトナム兵だった貧しい農夫が、属した軍を評して、こう語ったとあります。
汚染された土地 汚染された血
戦争が終わっても、全てが終わったわけではありませんでした。
年月がたつにつれ、枯葉剤が人体に及ぼす害がはっきりしてきます。
枯葉剤の害の恐ろしさは日本でもよく知られていますね。先天的な障害はじめ、あらゆる健康被害を引き起こします。ベトちゃん、ドクちゃんの来日が記憶にある方もあるでしょう。
さて、この枯葉剤、北ベトナムと南ベトナム、どちらに散布されたと思いますか?
・・・アメリカの敵だから、やはり、北ベトナム?
詳しくないと、そう考えてしまうかもしれません。実は私自身、長年、そうだと思っていました。
・・・しかし、違うのです。枯葉剤は南ベトナムに撒かれました。
ベトコンゲリラは森に身を隠してアメリカ軍の邪魔をしました。そこで除草剤をまいて森を枯らし、ベトコンが逃げられないようにしようとアメリカ軍は考えました。
そのため撒かれた除草剤が、いわゆる枯葉剤なのです。英語ではエージェント・オレンジ(Agent orange)とよばれます。致死的な量のダイオキシンを含むことで知られています。
アメリカ軍は1961年から10年あまりにわたって7600万リットルを超える枯葉剤を散布しました。オペレーション・ランチ・ハンド(Operation Ranch Hand)というそうです。
1965~1971年の間に枯葉剤が撒かれた地域(英語版wikiより)↓
ベトナム全土の地図↓
(現在ホーチミンとなっている都市が、南ベトナムの首都だったサイゴンです)
こうして全土と見較べると、南側だけなのがよくわかりますね。
枯葉剤はあろうことか隣国のラオス、カンボジアにまで撒かれました。北ベトナムが利用したホーチミン・ルートがこの二国に含まれているというのが理由です。
この隣国二国は死者もかなりの数を出しています。
数年前、中国包囲網づくりのために安倍首相が東南アジアに協力を呼びかけましたが、ラオスとカンボジアは協力的ではありませんでしたね。
日本マスコミはこれを「親中の国だからだ。中国の経済支援をあてにしてるからだ」と片付けましたが、この過去を知ると、それだけではないのかもと思えます。
中国包囲網という東南アジアへの軍事的な呼びかけを、アメリカという裕福な軍事大国ではなく、なぜか憲法9条を持つ日本が行うことになった事情も、そこにあったのかもしれませんね。
枯葉剤の害によるとみなされる症状は先天的な奇形、精神遅滞から四肢の異常、心臓疾患など多岐にわたります。
しかも、これら先天的な疾患は、世代を超えて子孫にまで現れることが珍しくないのです。
本人が枯葉剤の被害者で生まれつき障害をもっており、苦労を乗り越えて結婚し、子供が生まれて喜んだのもつかの間、今度は自分だけでなく子供の治療費まで稼がなくてはならなくなったというドキュメンタリーを見たことがあります。
(※参考外部記事:
「“3世代”にわたり奇形児が生まれ続けるベトナム戦争「枯葉剤」の悲劇写真10選! のっぺらぼう、顔面崩壊… 米国の残酷な戦争犯罪とは? 」 トカナ)
アメリカ人にのみ支払われた補償金
ベトナム人だけでなく、散布に携わった元アメリカ兵の間にも健康被害や子供の先天的疾患といった問題が現れました。
これについて300人ほどの元アメリカ兵たちが訴えを起こし、法廷は彼らに味方して、200億円を超える補償金の支払いが決定しました。
一方、2004年、ベトナム市民のグループがアメリカで訴えを起こしましたが、今度はアメリカの法廷はこれを棄却します。この判決はベトナム国内に大きな怒りを呼びました。
「(棄却となったのは)アメリカがベトナムに補償を行った場合、それはアメリカが戦争犯罪を認めることになり、多くの訴訟、賠償請求が起きる引き金になるからだろう」
ベトナム戦争の研究家であるイサカ・カレッジの准教授フレッド・ウィルコックス(Fred A. Wilcox)は、ベトナムのマスコミの取材に、こう答えました。
それでも近年、アメリカはこの補償問題に対して前向きな姿勢を見せるようになってきたといいます。中国の台頭により、アメリカに味方するアジアのパートナーをベトナムに求めるようになったためだとか。なんだか、皮肉な話ですね。
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世界一の軍事力を持つアメリカの援軍を得たときは、二国の間の同盟を信じ、勝利を確信してたろう南ベトナム。その辿った運命には言葉がみつかりません・・・
―――現実にウルトラマンというものがいたとしたら・・・それは戦いにメリットがないと感じたとき、地球防衛隊をおいて、黙って空へ飛びたち、それきり戻ってこない存在かもしれません。
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https://en.wikipedia.org/wiki/Agent_Orange
https://en.wikipedia.org/wiki/Vietnam_War
https://en.wikipedia.org/wiki/Army_of_the_Republic_of_Vietnam
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